白髪になってつける実

              キプロスの新郎新婦(セラミック製)。アシュモレアン博物館で。     右端クリックで拡大。

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                                            レバノン杉のように (4)

                                            詩編92篇1−16節

                               (3)

  また、「あなたはわたしの角を野牛のように上げさせ、豊かな油を注ぎかけてくださることでしょう。わたしを陥れようとする者をこの目で見、悪人がわたしに逆らって立つのを、この耳で聞いているときにも」とあります。

  「わたしの角」とは、傲慢の角ではありません。野牛のように強くして下さると言う意味です。確かに野牛の角は逞しいです。「豊かな油」は新鮮な祝福の油を指します。

  主は私たちを逞しく、力強くし、「わたしを陥れようとする者をこの目で見、悪人がわたしに逆らって立つのを、この耳で聞いているときにも」、祝福して下さるのです。

  私を陥れようとし、砕こう、躓(つまず)かせようとする者が目の前に存在し、悪人が邪(よこしま)な心で逆らい立つのを耳で聞く時も、主なる神は弱い者を強くし、祝福して下さる。神が傍らにいて下さるからです。

  そして、「神に従う人はなつめやしのように茂り、レバノンの杉のようにそびえます。」ナツメヤシは何百もの甘い実をたわわに付けます。祝福の象徴です。レバノン杉は頭上高く40mに達する巨木で、均整のとれた聳(そび)える雄大な姿は他を圧倒します。レバノン杉はレバノンの香柏(こうはく)とも呼ばれ、これが有名なのは何よりもひときわ高く香るその芳しい香りです。

  神に従う人は、ナツメヤシのように祝福され、レバノン杉のように香りを放って神を仰ぎ見るのです。アダムもイヴも罪を犯したが、悔い改めた姿は、レバノン杉のようにいい香りを放ったのです。アダムの言葉にはそのような高貴な香りが漂っています。悔い改めの香りです。悔い改めた者の香りは、悔い改めない者の香りに増して、高貴な香りを放ちます。まさにこの信仰者のように、旧約なのに明るく晴々してキリストの香りを放っている感があります。

  そして最後に語られます。「白髪になってもなお実を結び、命に溢れ、いきいきとし、述べ伝えるでしょう。わたしの岩と頼む主は正しい方、御もとには不正がない、と。 」

  白髪の方も用いられるのです。主を褒めたたえるために用いられるのです。何十年もA教会を会場に、土曜日に開かれている朝祷会を率いて来たBさんと言う方がいます。毎日新聞の外信部部長として活躍された方です。佐倉に住み、土曜日は毎週朝7時半の朝祷会を開いて来られたのです。電車で2時間かかります。しかし2年程前にホームに入って今は来られません。淋しいです。この方は至って謙遜な方で、この方もキリストの香りが漂う方です。

  ホームに入られましたが、日曜日は必ず娘さんが車でご両親をC教会に連れて行かれます。今日も出ておられるでしょう。礼拝に出て、自分の手で献金を捧げたいからとおっしゃるのです。献金は神への、キリストへの献身の徴(しるし)です。次の一週間も神に献身して生きたいと言う証しです。

  「 白髪になってもなお実を結び、命に溢れ、いきいきとし、述べ伝えるでしょう、わたしの岩と頼む主は正しい方、御もとには不正がない、と。」これがBさん、いや主を褒めたたえる者だとこの詩編は語るのです。

  老人の実の結び方は、若い時のワイワイ集うような実の付け方と違います。沢山の実は付けないかも知れません。しかし味のある実を付け、深さのある実を付けるかも知れません。静かな語らいの実、成熟した愛の実かも知れません。

  いずれにせよ、「いかに楽しいことでしょう。主に感謝をささげることは」という実であることは確かです。

       (完)

                                         2018年6月24日

                                         板橋大山教会  上垣勝

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