手から通じる心情はその意識の火種を熱する

駅から家までの道のり(逆もまた然り)は簡単に分けると2つあって

称すると、少し距離のある明るい道と、距離を短縮出来る暗い道。

私はいつも後者を選ぶのだけど

いつだったか、私と同じくらいの速度で歩く会社員風の男がいて

ああいうときに競うように力を入れて速く歩こうとする人間が

私は面倒臭くて嫌いで

分かれ道に来たところで私はいつものように暗い道を選んで

その男は明るい道に向かって行ったからホッとしたのだが

結局のところ、ルートは途中で合流することになっていて

ちょうどその合流地点に来たところで

若干息を切らせたその男がパッと姿を現して私にどうだ!と言った。

言わんとしていることはよくわかる(?)が

その行為のしょうもなさにはぁときょとん顔で答えるしかなかった。

という夜道の記憶をババアに話したら何故かものすごく怖がって

あんた、刺されたらどうすんのよ!

なんて言う始末。

なんもそんなに青筋立てて怒らんでもええやんねん。

って、それ以前に会社員風の男が

みんな刃物を隠し持っているみたいな発想はどこからやってくるのだ。

いや、そういう道を歩くからこそ、いつ襲われても

駅にいても、たくさんの人の中にいても

どこにいてもそういう状況は常に覚悟して生きていないと

どうしようもない世の中なのだから

もしホントに刃物を出されても別段たいした問題ではないのだが

それでも

夜はなるべくバスに乗れ

だとさ。

ババア、あんたまで私をちびっ子扱いか。

とはいえ、昨日だってバスの時間が合わなくて

いつもの暗い道を歩いたわけだけど、文句を言われても

今日が楽しかったからいいじゃないで済ましたから問題Nothing。

もちろん、周囲の音が気に食わないとか

昨日も電車内で若い男に妙な言いがかりをつけているじいさんがいて

そういう状況を見たくないのもあるのだけど

でも外に出ないのは塞ぎ込んでいるとかではないし

特に今月なんかは体調が不安定なせいで(自分が悪いのだが)

昨日までロクに出られなかったりで

私自身に関わる状態、状況の何かが嫌だとかではない。

そこんとこは多様な目的のためには仕方のない場合があって

むしろ外に出ること、その場に行くことを

グッと我慢することも必要だったりする。

そして、その我慢が原因で精神的にやられて

身体を壊すという悪循環。

だから昨日なんて何がどうあっても出かけようと決めていたから

心の中は結構跳ねていて

万全じゃない体調も万全にさせた。

(一体どゆこと?)

なんというか、能動的に出向く場所というのは

そうだからこそ多少の(肉体的、精神的な)不安材料を

補ってしまえるというか、払拭してしまえるというか

兎にも角にも、そこには私の中での信用とか信頼めいたモノ

(人物とか空気感とかを含めた)が詰まっているはずで

私がそこに在ることが楽しいのだと思う。

一昨日(だったかな?)に

私としての世界は唯一、単一だとしても多面的だから

たとえその悲しみが強く大きかったとしても

他方ではキレイに晴れ渡った空を眺めている

あるいは常にその情景を求めている、と言ったけど

悲しいから、悲しくなくするために生きている

きっとこれはホントのことで

たとえば、いつまでもチューちゃんのことしか考えていないのであれば

私はとっくに生きることをやめているはずで

前回だったか

どんなにその瞬間が楽しくても嬉しくても、結局は悲しみでしかない

というようなことを言ったのは

それが何千枚と保存された(私が保存した)

チューちゃんの画像を眺めていると起こる心の現象だからで

つまりそれも

私という多面的な存在の一部を切り取った表現であって

現に生きるのをやめていないのは

前述したようなそれなりの目的があったりするからなのである。

しかしそれは私が私に関する何かというだけではなく

私が誰か(相手)に向けた何かでもあり

誰か(相手)が私に向けた何かを感受することでもある。

無論、明確さをもって行えるのは私が私にだけなのだろうが

物事の答えというのは私以外の認識を得ることで活きるモノだから

外側に向けた表現

もとより、手を挙げて意思表示することは大切だと思う。

しかしながら、こういう言葉の本質だとか、生きている理由だとか

何かが一体何なのかだとか、その周辺にある事柄に関しては

やっぱり声で伝えるほうが、より伝わる。

だから、いつかあなたに直接話すほうがいい。

いや、聞きたくないなら喋らんだけだが。

わかる人にだけわかってもらえればいい

という言い方はずいぶんと独善的だというか

突き放したように捉えられてしまいそうだが、それはさにあらずで

要するに、対話、会話をすることで意思や言葉の意味内容に

共通、同一の理解を得ようと前向きになれる

もっと前提に、それについて会話をしようとしてくれることにこそ

その言葉の重要さが含まれているような気がしないでもない。

当然のことだが

こういう場のある種表面的にしかなれない言葉だけで

その瞬間の私の全てが伝わるなんて思っちゃいない。

でも、その伝わらなさの中でなんとか伝えようと模索するのも

外側に向けた一種の目的だと言えるのかもしれない(笑)

また今度、なんか喋ります(笑)